2008年09月05日

●思いで

ご無沙汰をしております…今月は初投稿ですかね。

最近、スポーツクラブの会員さんでギターを弾かれている方とよくメールのやりとりをしています。
仕事一色の時に仕事と無関係の方からのメールをいただくと、なんかホッとできる感覚もあり、ありがたく思っています。
主なメールの内容は、音楽やギターのお話。この週末も遊歩道でギターの練習をする約束をさせていただいています。楽しみです。
スポーツクラブライフでこのような会話ができ、なんか予想外で、嬉しくも感じていますし、「私ももうちょっとギターを頑張らないと」とも思い、久々に音楽に熱くなってたりします。

ということで、本業がまだ少しバタバタしていますが、僅かな時間の隙間をぬって、(HP作りやブログの更新をサボり)昔、聴いた懐かしい楽曲を1曲弾き語り、録音してみました。

先日までYouTubeさんにアップした楽曲は、安物デジカメの動画機能を使ったモノですが、今回は、久々にシーケンサー(音楽ソフト)を使ってみました。

ほんと、シーケンサーなんて久々に使ったもので、使い方や機能をスッカリ忘れてしまっていました。。。


今回録音したのは、因幡晃さんの『思いで・・・』(1977)という曲。


私が子供の頃、N家ではレコード盤が「子供用」と「大人用」と2つの箱に分けられてありました。
「大人用のレコードは聴いてはいけない」という両親からの忠告があり、もちろん私は「子供用」の箱に入ったレコードしか聴けなかったのですが…

「ダメ!」と言われると、そりゃ~聴いてみたくなりますよね(笑)

と、いうことで、両親が留守の際に計画実行!大人への第一歩♪「大人用」のレコードの箱を開いてみました。

そして、その中の1枚を適当に手にとり、レコードに針を落とし…

流れてきたのがこの『思いで・・・』という曲。

私が聴いたのは、因幡晃さんが歌っている歌ではなく、無名の歌手の方が歌っているものでしたが。

子供ながらに「悲しさの中にも優しさがある曲」という印象があり、それは、今この年齢になって、因幡さんの歌を聴いても同じ印象があります。

因幡晃さんといいますと、『わかって下さい』などの曲が一番に思い起こされるかと思いますが、私はこの『思いで・・・』という曲にそういう出来事から思い入れがあります。
シングルカットされているものの、この曲を知っている方というのも少ないのではないか?とも思っていますが。カラオケで見たことがありませんし、楽譜も見当たりませんしね。

当時、この曲に若かりし二人はどのような思い出やシチュエーションがあったのだろうか。。。
もう父親に聞くことはできませんし、母親に聞くのもなんとなく抵抗がありますので、聞くのはやめておきますが、代わりに録音して母親に聴いてもらおうかと思い、弾き語ってみました。

父親を意識して弾いてみましたが、弾いてみましたら、最後の部分のフレーズといいますか、詩がなんか心にグッ!とくるものがあり印象的でしたので、原曲にはありませんが、リピートしてみました。


録音方法は、まずギター伴奏を単独で録音し、その後にボーカルを入れるという、多重録音になるんですかね。(ギター+ボーカル)×ステレオで4チャンネルを使ってミックスダウン。
弾き語りといいつつ、一緒に弾いて歌っているということではありませんが、全て私自身の演奏ではありますので。

リバーブやら音の加工も少しイジってはみましたが、凝ろうと思えばいくらでもやる事が出てき、大変なので、加工はボーカルのみほんのちょっとだけ。ギターの音については一切イジっていません。

なんたって、今回録音に使ったマイクは、スカイプ用の¥1,280のヘッドホンマイクですので、こういった事に使うには…音に期待できませんよね。。。(笑)
直したい所も何箇所かあるのですが、時間がなく。。。

いずれ、直してこれに動画を貼り付けて、YouTubeにアップしてみようかとも思っていますが。(気分ですが)


『思いで・・・』
私にとっては、ほんとうに懐かしく思い出深い曲のひとつです。
よろしかったら!

※すいません、(9/8)一旦削除させていただきました。

2008年02月25日

●新たなる難題ジャンル

ここのところ、ようやっとブランド物やお化粧品など(興味はありませんが)のHP作りに慣れてきたと思いましたら…
今度のお題は…RPGぃ~だと?
最近のゲームは、よくわからん。。。
なんたって、スペースインベーダー世代ですのでね。
なので、ちょっと一服です。。。(一服の期間が短い?)

種類もよくわかりませんが、あの手のゲームといいますと、最近ではバイオハザードというのはやりましたね。最近といっても旧いんですが。
緑色のカエルのようなカッパみたいなヤツから洋館内を武器も持たずひたすら逃げ回っていた記憶があります。
最初に犬もいましたね。「なつくかな?」と近づいたら…喰われました。。。

スペースインベダーといいますと、流行ったのは私が中学の頃です。名古屋打ちとかありませんでした?
インベーダーが出始めた頃は、よく仲間と喫茶店に行き、やったものです。
が、通報され、職員室で正座した記憶もあります。(ついでに頭を丸坊主にされました)
中学生が喫茶店に出入りしてはいけませんね。

今のゲームと比べると、インベーダーって、トロくさいような気もしますが、私が今やると…すぐにやられてしまうんでしょうね。(自分もトロくさくなっているので)

さてと、ボヤいてないで、やれる時にHP作りやらないといけませんね。。。
現在、75サイト。だんだん本業も本格的に忙しくなってきました。

2006年07月25日

●青春のテニス物語【余談】

《ちょっと昔話ついでのオマケね》


高校卒業直後、テニス部の顧問の先生から「パチンコに行こう」とお誘いいただきました。
今思えば、ほんとは「飲みに行こう!」とおっしゃられたかったんでしょうけれど、やはり未成年なので、その辺りがお立場的にもギリギリだったのでしょうね。


待ち合わせ場所は、「夕方直接パチンコ屋さんで」ということでした。
店の場所は、千葉の繁華街、栄町。


私が店を探して、キョロキョロ歩いていると、通りを挟んだ反対側で、毛皮をまとった金髪のゴージャスな感じの女性が腰をフリフリしてこちらを見てるんですよね。その時点では「さすがは栄町だなぁ~」と単に思ってました。
けれど、私が歩き出すとその人も歩き出し、私が立ち止まるとその人も立ち止まる…
「つけられてる?」と感じた私は、さりげなくUターンしてみました。
すると、その人もやはりUターン…
明らかに「つけられてる」と確信した私は、通りの反対側のその人に「何か用ですかぁ~?」と声をかけてみました。
すると、その人は、ニコニコして右手を丸く作り、自分の口の前で前後運動させて見せるんですよね。。。
しかも、よく見るとその人、なんかガタイもいいのです。。。
それを見て即、身の危険を察知しましたが、私は唖然としてカタマってしまいました。次の瞬間、その人がスゴイ勢いで車の流れをも止め、こちらに向かって通りを渡り走り始めてきました。
当然私はハッと我に返り、大勢人のいる歩道を小走りに逃げ始めましたよ。
すると「逃げないでぇ~」と、ズ太い声で…
逃げながら「一体何の用ですか~。何も持ってないよ~」と私がワケのわからない事を言うと…
「¥タダでいいからぁ~~」と、またズ太い声で…
しかも、足が速いんだよね。ハイヒールを履いてるのに…
ハイヒールの音がすぐ近くまで聞こえてきて、恐々振り返り見ると、まだ距離はありましたが、ニコニコしながらも周りの歩行者を蹴散らしズンズンとこちらに向かってきて…化粧が濃いんだけど、ヒゲも濃く…「お、男じゃんか…」
そして「あ~追いついた♪」と真後ろで声がした瞬間、私はスイッチが入ったように振り向かず歩行者にぶつかりながら猛ダッシュっ!
走りながら探してた店を発見しましたが、私は一旦この店をスル~して、その女性(?)をまいてから入店する事にしました。目的地がバレると、絶対もう一度狙われると本能的にとっさに判断して。一旦、駅の駐在所前まで避難しました。


1時間ほど駅付近で時間を潰し、意を決して恐る恐る再度待ち合わせの店に行きました。
無事に入店すると、顧問の先生がくわえタバコで打ってらして、「お~随分遅かったじゃないか」と。
「オカマに追われて1時間逃げ回ってました…」と一部始終を説明すると…
「そうかぁ、ソッチにモテそうだもんなぁ。あはは~」などと。。。
とにかく帰りの事を考えても、パチンコどころではなく、勝ったのか負けたのかも覚えてません。


それがトラウマになっていて、栄町という町をそれ以来避けるようになりました。
それにしても、あの時もしその場で捕まっていたら、私は一体どうなっていたんでしょうね。
人間的にも。。。それからの人生的にも。。。

2006年07月24日

●青春のテニス物語3

私の高校時代の集大成ともいえる最後のテニス大会。ジュニアオープン戦の『ピーナッツ・カップ』。
高校の看板を背負って、同級生二人に見守られる中、臨みました。

予選は、トーナメント方式で4試合あるのですが、なんだか、嘘のように、面白いように勝てて。。。
予選最後の相手は、都内のテニスの名門校だったのですが、友人達の「どんなコテンパンなやられ方で負けるのか楽しみだ」という予想に反して勝ってしまいました。(自分でも予想外)予選通過です。
即、顧問の先生に電話を入れ、同級生と抱き合いもしました。(コーラもご馳走してくれました♪)

後日に行われた本戦トーナメント1回戦では、テニスのウルトラ名門校と当りました。「あと1ゲームでラブゲーム勝利!」というところまでいきましたが、そこからウルトラ逆転負けをしてしまいました。
“勝ち”を意識しだしてから、体が思うように動かなくなってしまったという記憶があります。
サーブも全然入らなくなり、下から打ったりもしました(アンダーサーブ)
私くらいですかね。本戦で下からサーブを打つなんて選手(笑)当然、いいようにひっぱたかれますよね。
もちろん、本戦ともなると、テニスと言えど相手サポーターからのチクチクとしたヤジもガンガン飛んできますし、選手同士のプレッシャー(威嚇)の掛け合いの心理戦もあります。この辺の経験ももうちょい必要でしたかね。
こちらはやはり同級生二人に見守られて臨んだ試合でしたが、私を含め3人とも負けてもなんか「ここまで来れればもういいよな」と、すがすがしかったですけれどね。

これが評価されてか、後に同好会は晴れて『硬式テニス“部”』となり、「コートを作る」という話も浮上してきました。
もちろん、そのコートで練習する事なく私は卒業してしまったんですけどね。実際にコートが出来たのかどうかも私は知りません。
確認はしておりませんが、風のウワサで聞くと、母校の『硬式テニス部』というのは、今でも存在しているようです。
私が作ったクラブかどうかはわかりませんし、また、確認もなんとなくあえてしてないんですけどね。


余談ですが、卒業式の日…
式が終わり、皆がいなくなってから、Kと二人、屋外のバスケットコートで、最後に打ち合いました。
ギャラリーのいない中でね。お互い暫くテニスから離れていたので、すこぶるヘタクソでしたが。(笑)
そして陽が落ち始め、球が見えなくなるほど暗くなり、満足すると、私達はコートに座り込み、申し合わせたようになんとなくラケットのガットを切り、解き始めました。
「もう打つこともないんだろうな」や「悔いもないし」などと思ったからですかね。それとも、もうちょいだけ(1分1秒でも)Kとこのコートの上にいたかったからと思ったのか…今でもわかりませんが。

そうしていると、女子生徒が二人現れ、「一緒に写真を撮ってください」ときました。
丸で我々がここで最後に打ち合うのをわかっていたが如く。そして打ち終わるのを待ってもいたようです。
自慢ではないのですが、Kに会いにきたのかと思ったら、私にでした。ヒール役の私にもファンというか、そんな人がいたんですね。驚きました。さぞかし肩身の狭い想いをしていた事でしょう(笑)
ちなみに、この時点でKの制服のボタンは全て完売状態。私の制服のボタンは全て揃ってました(笑)

その後、私は、市内で常に上位にランクする社会人のテニスチームからお声をかけていただき、数年はテニスをやっていましたが、いつの間にか遠のいていきました。
「やるからには勝ちたい!」=「勝つには思いっきり練習したい!」けど、その時間が満足に割けられなくなったという苛立ちもありましてね。ま、あくまで“遊び”の域での話ではあるのですが。
そう、一度だけ、アルバイト目的でインストラクターの試験を受けた事もあります。学科試験で落ちましたが…
試験問題…「ボールの重さは何グラム?」 答…「そんなの知らん~」みたいな。。。


最近、出歩いてないもんで、特に記事に書くような事もなく…たまには、こんな昔話もいいですかね。。。
ヤ○キーではなかったと少しは証明されただろうか。

それにしても高校野球…
母校は現在のところ順調に勝ち進んでいるようです。
また甲子園出場となれば、寄付の依頼が来るんだろうか。
一口¥5000だったっけな。。。
とにかく、1日でも長く大好きな野球を続けられますよう祈りつつ観戦しております。


(▼写真は、その屋外のバスケットコートで打っている若き日の私。写真部の友人が撮ってくれて…ちょうど、今の甥と同い年の頃ですね。私が高校時代にテニスをやってる写真って、この1枚のみかな。実家に飾ってありました)

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2006年07月21日

●青春のテニス物語2

一つ上の先輩方と『硬式テニス同好会』を発足させて、半年後の事…
何を思ったのか、その先輩達全員が退会し、全員が生徒会へ立候補。。。
「お前、部長な!後は任せた!」と。
後に理由を聞いたら「女子とのコミュニケーションがとりたかった」らしいのです。
生徒会の活動は、男女一緒でしたからね。
それにしても、残された私は何をすればいいんだ?みたいな。。。


とりあえず、「同好会を部活に昇格させよう!」を残った同級生と共に目標に定めました。


まずは、先生方に顧問となってくれるよう、職員室で片っ端に頭をさげて…
一度、校長室までも行きましたが、さずがに怒られました。。。
なんとか、「いいよ」とおっしゃっていただいた先生がお一人いてくださいました。


次に、実績ですね。
「とにかく、試合に出よう!で、勝とう!」を目標に。
当然、部活扱いではないので、高校総体などへの参加資格はなく。
高校やテニスクラブなどのジュニアが参加する、ハードコートテニス選手権『ピーナッツ・カップ』という千葉県の柏地区で行われるオープンのトーナメント大会がある事を雑誌で知り、この大会に目標を定めました。
テニスコートを持たない我々の初めての試合…結果は見えてますよね。10名以上シングルスでエントリーしましたが、全員予選一回戦敗退。しかも私を含め殆どがラブゲームで。
負けた事以上に「試合になってない」という印象があり、恥ずかしさが強く、落ち込みました。


「校内にテニスコート」は望めそうにもないので、私は、何名かとテニススクールに通う事としました。
今でもあります『ルネサンス幕張』さん。
けれど、所詮高校生。¥の余裕はありません。私は、1期のみ、基本をとにかく習得する事だけとしました。
他の仲間は、暫く続けていたようですが。


ある日、テニスコートに飢えてた(?)私の姿をみて、顧問の先生が合宿を企画してくださいました。
場所は、なんと軽井沢!
これも後で理由を聞いたんですが、単に自分が行きたかったらしいのです。学校のOBの方がやられてる民宿で、少し旅費の負担もしてくださいましたが。
この時、初めて軽井沢という所に行きましたが、景色や名産物など目に止めず、コートで一日中打ち合ってた記憶があります。
途中に見た妙義山や朝のジョギング時に見た塩沢湖は、キレイに映った印象がありますが。

この顧問の先生…
校内での練習には一切顔を出してくださいませんでしたが、色々なテニスコートを調べてあたってくださってたみたいで、「ここに行ってみなさい」などと時折紹介してくださいました。やはり、OBの方が経営されてる千葉の白子の民宿での合宿も幾度か企画してくださったりと。
後の話ですが、卒業後もおつきあいがあり、ご一緒に代々木へボルグ選手の試合などに連れて行っていただいたりもしてくださいました。(その頃のお話は、またの機会にでも)
それに応えるべく、出られる試合には貪欲に出ました。すべて1回戦敗退でしたけどね。


こんな同好会でも、春には何名か後輩達が入ってきました。なんと女子も。
コートも無いのに結構な大所帯となりました。
練習場所はおろか、自分に余裕も実績もない中で、彼らにいう事をきかせたりと、まとめるのは、大変な事でした。
時には、部員同士の恋愛相談も受けたりもしましたが…「そんなくだらん事、知らん~!」みたいに当るように怒って投げ捨てる事もあったりもしました。それほど気持的に余裕がなく。。。


そして、3年の夏に、同級生と「これを最後の試合としよう」と決めていた試合に臨みました。
やはりジュニアのオープンのトーナメントの試合でしたが、私の1回戦の相手は同じ市内の高校の選手。しかも1つ下でした。
接戦となりましたが、私は落としました。
泣きましたよ。。。後輩達に囲まれる中、恥も何も後回しにしてね。
馬鹿にされるかと思いましたが、中には一緒に泣いてくれた後輩もいてね。


そんな彼らに“部活”という形としてこの後を託せないという想いが、私を次の試合に臨む決心をさせました。
同級生では、私一人のみの参戦でした。目標の試合は、デビュー戦でもあった『ピーナッツ・カップ』。これが参加資格上でも本当に最後の大会です。
部長の座は後輩に譲り、彼らの練習活動からは一人離れて、同級生に力を借りて。また、再度テニススクールにも通いました。¥はバイトで捻出してね。


↑ん?長文?では、この続きは、また後日にでも。。。

2006年07月20日

●青春のテニス物語

今日終業式→夏休み突入なんて高校が多いんですかね。「目指せ!甲子園!」の夏の高校野球の地方大会も始まってますね。ここのところ雨で延期などになってますが、熱戦をたまにTVにて観ています。
子供の頃、高校球児を見ると、おっさんの様に思えましたが、最近では子供というか、「エラーすんなよぉ~」などとヒヤヒヤ見守る親のように観ている自分がいます。

話が変わりますが…
私が通うスポーツクラブにて、先週まで『電解水』の機械販売のキャンペーンのような事をやられてまして、その営業のおじさんから「フットボールをやってたの?それとも水球?」と言われました。
私の体を見てそう言われたらしいのですが。
「胸囲はどのくらいあんの?」と問われたので「120センチのAカップ」と答えておきました。
実際に測った事がないのですが、そんなにはないと思うんですけどね。

今回に限らず、よく「スポーツは何かやってたの?」という質問をいただくのですが、「テニスをやってました」と、私は今でも答えます。
私の今の体型からかキャラからか、どなたも(笑って)信じてくださいませんが。。。
私の職業イメージにいたっては…「消防士さん?」や「警察官ですか?」などと。。。
たしかに、高校卒業以降、20年以上マトモにラケットは握ってはいないのですがね。

最近のテニスの選手も、ちょっとよくわかりません。
現役選手で名前を挙げられるのは、有名なシャラポワ選手以外では、ヒンギス選手がギリギリというところですかね。男子の方はサッパリ。。。
私がテニスをやっていたのは、高校時代の3年間。
ボルグ、コナーズ、マッケンロー。女子では、クリスエバートロイド、ナブラチロアなどの各選手が全盛期というか活躍されていた時代です。
特にレンドル選手の居合い抜きのようなバックハンドに憧れたもんです。

私が高校の頃、「暴○族だったでしょ!?」や「ヤ○キーだったでしょ!?」なんて誤解もあるようです。
なので、大~昔話ですが、ちょっとその高校時代とテニスのお話しでも…


 私の通っていた高校は、男女併学っていうんでしょうかね。
生徒は、男女いますが、建物が別で、男女一緒での行事というのは、体育祭と学園祭、避難訓練、あとは生徒会くらいしかありませんでした。
現在の母校は、共学のようで。しかも結構レベルも高くなったようです。

たしかに、当時は、やんちゃな生徒が多く、何かある毎に他校とのトラブルも多く、校内でも毎日のように熱いコミュニケーションをとって、頻繁に血液を見るような状態でした。
また我々が一生懸命勉強してるのを応援してくださるかの如く、旗を掲げたオートバイ数台がこちらも毎日のように、学校周辺を賑やかしてもくださいました。。。
男子のみならず、女子もやんちゃな生徒が多く、保健室に行くと、必ず2,3人の女子生徒が横になってウナっているのですが、保健室机上の書類の「症状は?」の欄には「ツワリ」と書かれてる事がしばしば。
そんな状態なので、「建物別」や「行事別」もうなづけますが、かえって拍車をかけてたようにも思えました。

男女別の校舎は、アンツーカーの屋外バスケットコートを挟んで建っており、時折、女子の校舎からピカピカと何かが眩しく光るんですよね。
手鏡で日光を反射させて、男子にコンタクトをとろうという事のようです。
今のように携帯電話はおろかポケベルというモノの存在もない時代でしたからね。
ちなみに、光線が私に止まる事はありませんでしたが(笑)


で、私の高校生活はというと、テニス一色でした。3年間、皆勤賞でいたのも、このテニスがあったからかと思われます。

入学して間もなく知り合った先輩から「テニス部を作ろうか」という話が出て。
この学校には、硬式テニス部というクラブがなく、コートもなく、知識もなく…
中学からやっていた野球部にでも入ろうかとも思っていたのですが、私はこちらの話にのりました。
そして部活扱いではなく、『同好会』という名でスタートをしました。

主な練習は、授業前2時間ほどこの屋外のバスケットコートで。放課後は、走りこみやトレーニング、ボレーの打ち合いなど。。。
テニスコートを持たないテニスクラブでしたからね。実際の打ち込みは、バスケのコートが空いてる時間帯に。
クラスメイトでもあり部活もともにしていた“K”とテニスボールを毎朝、雨の日でも打ち合っていた。というのが私の高校生活リズムでした。

我々が打ち合ってる様子を女子校舎からよく見下ろされてて… そのKは、女子に人気が多く、私がパッシングやスマッシュ(ショット)などを決めると、女子校舎からブゥ~イングとヤジが嵐のようにスゴイ勢いで起きました。私はヒ~ル役でしたね(笑)
たしかに、Kはカッコよかったからなぁ。(今では…その面影は…見受けられませんが)


↑気付けば、長文?う~ん、前フリが長過ぎるんだろか。。。
という事で、コレというオチはないのですが、続きは、また後日にでも。

2006年07月05日

●大型二種

本日もダイエットに勤しむべく、雨の中、電車とバスにて出勤。
駅で懐かしい人にバッタリ会ったり…という機会も生まれてますが、ダイエット効果の方は…あまり出ておりません。。。
それにしても、雨も気になりますが、テポドンも気になる空模様ですね。


「バス」というと…
私の職場界隈には、2つ繋がった全長18mの『連節バス』が走ってます。
一般路線バスとしては、この京成バスさんの連節バスのここでの運行が国内で初という事です。
私も珍しいので、デビュー当時はめがけて乗ってましたが、ちょっと椅子が硬く…
今私は、このバスが来ると逆に敬遠してしまいます。
椅子が硬いのは、バスも電車も今の主流なんですかね。
(再発しちゃうじゃんか…)

で、この連節バスは、ボルボ製(ボディーは富士重工)らしいです。
オートマで、ターボチャージャーだかスーパーチャージャーだかは解かりませんが、加給機タービンの回る音がヒュンヒュンしてます。
後部車両のタイヤが4WSのように動いてるようで、交差点などで曲がっても前の車両に似た軌跡をトレースしてます。
運転には大型二種+けん引二種の免許が必要なのかと思いましたが、「常時切り離す構造ではなく1つの車体とみなす」という特例解釈があり、経路厳守という条件の下、大型二種免許のみで運転できるようです。


私もバスの運転手を目指してた時期がありまして…
横浜で乗った二階建遊覧バス(ブルーライン)に感動してね。「コイツを運転したい!」みたいな。。。
昭和64年(平成元年)に大型二種を取りました。
余談ですが、昭和天皇の崩御直前の時期に取ったので、免許証には、平成1年ではなく、「昭和64年」と記載されてます。

試験はというと…
大型車や、ましてやバスなんて運転した事もなく試験に臨んだもんで、学科試験は1発合格でしたが、実技試験は11回目でようやっとパスしました。
この試験、今では(平成14年6月法改正)教習所卒業での実技免除があるようですが、当時は試験場にて、いわゆる“一発試験”で取得する方法しかありませんでした。
(教習も今¥30万くらいかかるようですが…)
ちなみに、警察庁の『運転免許統計』によると、平成13年での合格率が13.5%、15年での合格率が21%という感じの試験です。

私の奮闘ブリはというと…
最初の試験時は、エンジンのかけ方も解からず、試行錯誤の上、やっとかけたものの、シートベルトも締めずに走り出し、外周半周回った所で試験官「に「帰れ!」と言われました。(笑)
2度目の時なんか、発進時にギアを2速に入れたつもりでいたらバックに入ってたようで…はい、結果はご想像の通りです。(再笑)
めげずに何回か受けてるウチに受験者とも顔なじみが出来、情報も色々入ってきて、運転自体にも慣れてきたというか、コツやポイントが解かり…
何回目だったか、やはり不合格だった時でしたが、試験官から不合格の告知と共に「若いのに頑張るな」とお声をかけていただき、もちろんコツやポイントは教えてくださいませんでしたが、この一言で更にヤル気になりました。(特に試験官が私情的な言葉を発するという事はなかったので)
たしかに、受験者は、30~40代の上の世代の方々が多かったですね。当時二十歳ソコソコの私と同年代の受験者の姿は見かけませんでした。
中には、やはり上の世代ですが、女性の方もいらしてて…「ワタシは今日で14回目よぉ~あはは~♪」なんて。。。マドンナというか、アイドル的存在の方もいらっしゃいました。(笑)

バスって、トラックとはまた違う構造をしてて、前輪が自分(運転席)よりはるか後ろにあるんですよね。
なので、S字なんて自分(運転席)が縁石をはみ出し、芝の上に位置したり…

そんなこんなで、結構苦労したもんで、この時の事は18年以上経った今でもよく覚えています。
合格時は、やはり合格された方と一緒に、試験場内にある献血ルームで、「記念に!」と、ニコニコしながら献血したり…
採血していただいた方から、「脈が早いですね」と言われました。
それだけ私は興奮していたんですかね。…(献血という事をしたのは今まで生きてきた中でこの1回のみですが)

それからバスの運転手を目指し、まずはトラックの運転手という職に就きましたが、前述にあるように腰を痛めて…断念いたしました。
ただ、この免許を取得してからは、無茶な運転をしなくなったような。
そんな気がしてます。